久松みちお(ひさまつ みちお)

【顔写真】

久松倫生(ひさまつみちお)おいたち

  1952年飯南郡花岡町(今の松阪市)に生まれる。父久松貫道・母やゑ子。

両親が教員という家庭で育ちました。教員であり書家でもあった父と、女性の管理職の草分けとして踏んばる母を見てきました。花岡小学校1年生の時、伊勢湾台風がありました。2年生の時、安保闘争があり、「アンポハンタイ」の声をよく聞きました。6年生の時が東京オリンピックでした。

(写真 祖母に抱かれている生まれたばかりのみちお)

地元の学校から、静岡大学へ

三重中、三重高を卒業。三重高校で生徒会長もしました。三重高校が甲子園の常連として春の選抜で優勝したころです。しょっちゅう甲子園へ応援に行きました。

静岡大学人文学部(日本史)に学び、専攻科まで修了しました。大学へ入って、いわゆる「マルクス主義歴史学」と出会い「歴史は進歩する、だれもが幸せになる未来社会が来る」という展望をもちました。マルクスの『経済学批判』「序言」で、社会構成体といった用語を知ったのもこのころです。

大学へ入った年が沖縄返還のときです。アメリカとの軍事同盟をやめ、ルールのないひどい大企業優遇から働く人々が主人公になる道すじをもっているのが日本共産党であるとわかったとき、その一員となりました。そのころ、革新自治体がひろがり、日本共産党が大きな躍進をした時期でした。一緒に過ごした人たちには、のちに共産党員の市長や町長になった人、各地の自治体議員はじめ文化財保護など今でも全国各地でがんばっている仲間がたくさんいます。いつも励まされています。

歴史文化をライフワークに

  郷里へ帰って、松阪市役所へ入所。市議会議員に出るまでずっと教育委員会事務職員でした。3年後に社会教育主事の資格を取得。社会同和教育を専門にして結構忙しい毎日でした。地域へ出かけていろんな教育課題に出会いました。その体験が今も大きな糧になっています。

市職員としては、自治労の青年部長も経験しました。

このころ幸いにも、三重歴史学会という研究会へお誘いいただき、また歴史の勉強に参加できるようになり、専門が生かせると元気が出てきたころです。これから、歴史文化の活動がライフワークとなったようになり、今日、文化財保護審議会委員をつとめさせていただく裏付けになっています。

(写真 郷土史事典や歴史地名体系(平凡社)、三重県の街道調査などに参加)

くらしよい松阪へ!市議会議員に

いつも自転車で駆け回っています いつも自転車で駆け回っています

1987年、34歳で松阪市議会議員初当選しました。そのころの市政の焦点になったのが水道問題でした。松阪市民は1988年(昭和63)の蓮ダムから水を引く県営南勢水道の受水開始から、使っても使わなくても6万㎥の基本水量を買わされる仕組みができ、水道料金が上がり続けてきました。常に市政、県政の焦点になりました。このころからの一貫した取り組みが、今日の水道料金引き下げへ結びつきました。

天守閣論争で“お面を一本”

  そして、独自の取り組みとなったのが天守閣問題です。松阪城跡(県指定史跡)へ天守閣を建てようということですが、松阪城天守は正保元年=1635年に倒壊した記録しかなく歴史的根拠が全くないものでこんなものを建てたら笑い物にしかならないと正面から反対の論陣を張りました。当時の奥田市長が「復元」という表現をしたことから1990年12月議会で「復元というならモトを示せ」と迫り紛糾、「復元という言葉は使いません」という答弁となりました。この追及は、当時の「東海新聞」が「市長からお面を一本!」と書いたほどです。いわゆる「天守閣論争」の一連の経過などについて『松阪 城と城下町』という本をまとめました。

(写真 1994年出版。今は在庫なく図書館で見ていただくしかありません)

もう一つ焦点になったのが同和問題でした。松阪は、大正時代から水平社、農民組合などの運動の先駆的な闘いがありました。戦後の同和教育の先駆的な実践で知られた地域でした。ところが1980年代の半ばに部落解放同盟が新たに組織されてから、教育も行政も変質して実質解放教育、解放保育が押し付けられようとしました。1991年3月の市議会で同和の特別立法に変わる「法」が全国的に問題になったとき、松阪市議会は「部落解放基本法に反対する請願」を多数決で採択しました。もちろん解放同盟などの激しい抵抗がありましたが、毅然とした議決が行われました。これは、全国の情勢を大きく変えました。議員活動の中でも決して忘れられない大きな闘いでした。

三重県の同和行政・同和教育とたたかう

  市議を2期務め、95年に県議選立候補しました。水道問題やあまりにひどい三重県の同和行政、同和教育・同和保育を何とかしたいと思いでいっぱいでした。残念ながら県議選では大きなご支援をいただきながら及ばず申し訳ない結果でした。その後、県議団事務局の仕事をさせていただいたこともあります。そんなときに、99年12月松阪商業高校の校長先生の自殺という大きな事件が起こりました。「確認・糾弾」を是とした三重県の同和教育、行政の行きついた悲劇だと思います。その後、全国一といわれるほどのゆがんだ行政・教育とのたたかいを県議団とともに取り組みました。その後、松阪市議会へ復帰してからも同和行政、同和教育の終結と不公正の一掃のためにがんばりました。

現在にいたる一連の取り組みについて「暮らしと政治」「議会と自治体」「人権と部落問題」などへその都度レポートや論文を出しました。

再び市議会へ

  2003年再び市議会議員に当選させていただきました。合併前の松阪市で、消防組合議会議長などをやらせていただきました。05年、合併後の新松阪市議選に当選、議会運営委員会副委員長など務めました。

市議の時もそうでなかった間も、地域のみなさんに支えていただきました。地元小部の自治会長、駅部田保育所保護者会長、花岡小PTA学年部長、中部中PTA本部役員などつとめさせていただきました。保護司は94年からずっとやらせていただいております。

そして、09年7月の選挙で再選され今に至っています。「生活を楽にしてほしい」という声にこたえること、その一歩が水道料金引き下げで実現しました。本格的な議会改革など課題がいっぱいです。

(写真 2009年12月10日、水道料金引き下げを市長に申し入れ)

松阪城跡が国の史跡に。歴史のまちづくりや山里の未来創造事業でも前進つくる

  歴史文化のまちづくりでは、松阪城跡が国の史跡指定を受ける方向が明確になり、保存管理計画の検討が動き出しました。「歴史まちづくり法」に基づく認定計画を受けさらに松阪のまちづくりがすすむように提案しています。「過疎地」の諸課題に対して減流の里の総合的な政策推進を提起してきましたが、山里の未来創造事として重点事業に位置づけられ動き出してきました。

「源流の里」の水源を調査。これが「山里の未来創造事業」の取り組みの始まりとなりました。

現在は、党県委員、中部地区常任委員。文化財保護審議委員。党や議会以外で三重高同窓会常任理事、伊勢の國松坂十樂あるじ(代表)、しょんがい音頭と踊り保存会副会長。人権連松阪地協副委員長など。

  (写真 母の80歳の記念に佐渡を訪れたとき。能舞台でのとっておきの一枚です)


【家族】 妻、二女、母
現住所
〒515-0045 松阪市駅部田町小部1397番地2
電話・ファクス 21-2811
なんでも相談ホットライン 090−6590−9302

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